大雪山の「価値」を知り「活かす」ためのフォーラムを傍聴して
三浦文学案内人 森 敏雄
師走も半ばを過ぎた12月17日、大雪山国立公園の玄関口である東川町の文化芸術交流センターで標記フォーラムが開催された。主催はひがしかわ観光協会であった。案内チラシをみると、三浦文学館の難波事務局長が「三浦文学と大雪山」というテーマで事例発表することが載っていた。早速旧友を誘ってこれを傍聴してきた。その模様を以下にお知らせしたいと思う。
冒頭環境省の奥田課長による基調講演では、「大雪山国立公園」は「国立公園」群の代表格であり、この自然景観を「活かす」のは地元の人々の参画と連携が重要!といった基本的核心のほか、世界遺産や日本遺産についてのレクチャーがあった。事例発表では、①「大雪山カムイミンタラ事業+上川アイヌ」日本遺産構想、②「三浦文学と大雪山」関連情報、がそれぞれ発表された。最後に、北大大学院准教授愛甲コーディーネーターを中心とした奥田・井上・難波パネリストによるディスカッションが行われた。
さて、注目の難波事務局長が発表したテーマ「三浦文学と大雪山」の要旨は以下のとおりだ。
三浦文学の代表作『氷点』では陽子と徹が層雲峡の旅館に宿泊する場面が出て来る。アイヌの火まつり見学後、宿に帰ると布団が二つ敷いてあり、この場所で陽子は、小4の時、もらわれて来たことを知ったと徹に語る。
また、現在、三浦綾子記念文学館第4展示室で開催中の「三浦綾子サスペンス 層雲峡・天人峡に燃ゆ」関連の作品、『積木の箱』『雨はあした晴れるだろう』『残像』『毒麦の季』『自我の構図』『果て遠き丘』などが次々と紹介された。
三浦夫妻の新婚旅行地は層雲峡であり、三浦綾子は旭川の地にあって大雪山とともにあった。
エッセイ『丘の上の邂逅』には、
「・・・白金温泉へ向かう途中の、あの両側に延々とつづく白樺の林・・・」
「・・・勇駒別からの旭岳もまたすばらしい。秋にここに来ると、空気が澄んでいて、あの北の日本海に浮かぶ利尻富士がはるかに展望できるという。・・・」
「大雪山に上って眺めるのもいいが、旭川から眺める大雪山がまたいい」
というような描写がでてくる。
『死ぬという大切な仕事』という光世さんのエッセイからは、99年7月11日が三浦綾子最後のドライブとなり、大雪山や十勝岳の自然美を心から称えていたということがよく分かる。
『泥流地帯』『続泥流地帯』の舞台は十勝岳。この小説は「ふるさと」に思いを寄せることの重要性が熱く語られている。
難波事務局長の発表でとりわけインパクトがあったのは、「山には“時”がある』というメッセージであった。
山に相対すると、時間を忘れる。
ゆったりした流れの中に身を置くことができる。
人生の意味を見出す場でもある。
言い得て妙であった。
時間を費やして登頂、そして下山する。読書もまた時間が必要である。時間を費やして読了、そして大きな感動がある。
登山が大の苦手という難波事務局長の指摘は正鵠を得ている。自然と文化の営みは循環する。
ところで、出席者は「三浦文学と大雪山」の発表をどのように聴いたのだろうか?
「三浦文学や三浦文学館に親近感を持つことができた」
「旭川圏の入館者が少ないという話だったが、こういった場で三浦文学をPRすることは大きな意義がある」
などと好意的であった。
それとは別に、「ともかく会場が寒かった。うわの空で話を聞いていた。」という声があり、確かに会場は寒かった。話はそれるが、その寒さから私は、『銃口』で竜太が大正天皇の御大葬の日“足が冷たかった”という綴り方を書き、河地先生に殴られ、書き直しをさせられた一件をふと思い出していた。
大雪山の「価値」を知り「活かす」という取り組みは、三浦文学の「価値」を知り「活かす」取り組みと軌を一にする。同様に「旭山動物園」「買物公園」「優佳良織」「写真甲子園」「十勝岳」など、旭川と近隣市町村の「価値」を知り「活かす」取り組みにつながるものである。これらの資源を一本化することによって、旭川圏の一層の活性化が図られるのではないか、そんなことを感じた有意義なフォーラムであった。
(参考)大雪山は、独立峰ではなく北海道の最高峰「旭岳」を主峰とする山群である。大雪山は、昭和9年12月4日「国立公園」に指定された。温泉も多い。