自伝小説を読んであらためて驚いたのは三浦綾子の記憶力である。友人、教師の名前はもちろん、その関係性の中で生じた表情まで記憶していることである。
三浦綾子は、自分の思い出について、小学校時代の恩師や友達等に確かめた結果、記憶とか思い出というものは、はなはだ個人的なものと思ったと言っている。
自伝小説には当然ながら、三浦綾子の人となりをかたちつくったと考えられるエピソードが出てくる。それらには、感激したり、驚いたり、涙が出そうになったりする。
その中で私が好きなのは次の二つのエピソードである。理由はその場所がほのぼのとイメージでき、思わず微笑んでしまうことである。
その一つが、『草のうた』に出てくる「馬の小母さん」がお土産に持ってきたコーレン煎餅を弟と二人で「おいしいね」、「おいしいね」といいながら食べた場面である。このおいしい煎餅を大好きな姉の百合子にも食べさせたいと思い、姉が帰ってくるまで取っておこうということになった。二人は、出窓に上がって、姉の帰りを待つことにした。しかし、待っても待っても、三年生の姉は帰ってこない。「ひと口だけ食べようか」「うまい!」「もうひと口だけね」、もうひと口、もうひと口と、二人は顔を見合わせながら煎餅を食べた。それほどにその煎餅はうまかった。午後になって、姉が帰って来た時には、ひとかけらの煎餅も残っていなかった。
このおいしいコーレン煎餅を姉の百合子にも食べさせたいと思い、出窓の上で姉を待ちながら煎餅のおいしさの誘惑に勝てなかった弟と綾子の二人の姿が浮かぶ。姉の顔を見た時に煎餅がひとかけらも残っていないことに気づいた二人はどうしたのだろうと思うと、私までドキッとする。
もう一つのエピソードは、前川正と友人の手術の終わるのを待つ間に、食べたキャラメルの話である。綾子は売店からキャラメルを買ってきて、「疲れた顔をしている前川正に、『ひとついかが』とすすめた。すると彼は『いま間藤さんは手術室で、手術を受けていいる最中なんですよ。そのことを思ったら、キャラメルなんか、のどを通るわけがないでしょう』と首をふった。その前川正の言葉に打たれ、必ずしも前川正に親切でなかった友人の手術に、こんなにも本気で心配しているのかと思うと、前川正という人間が、実に偉く思われた。しかしわたしは、ひとりでキャラメルを一箱あけてしまった。」
もちろんこの二つの記憶は三浦綾子の年齢も時代も違う。キャラメルをひとりで一箱開けた時の綾子の友人に対する思いや手術に対する心配などは述べられていないが、キャラメルを一箱開ける間の心の動きや、キャラメルの味はどのようだっただろうと思うと同時に黙々とキャラメルを食べる綾子の姿を想像する。
また、三浦綾子が兄の仕事を手伝う牛乳配達の時間を次のように述べている。
「実に楽しいひと時だった。誰にも話しかけられず、誰にも話しかけず、一人心の中であれこれ考えながら歩くのは、まさに至福のひとときといってもよいほどだった。」
「牛朱別川の堤防の草に朝露が光り、清らかな水に空が映える晴れた日には行く手に大雪山が見える」
私は健康のためのウォーキングで神楽築堤、雨紛築堤から見る早春の残雪を被った大雪山が好きである。晴れた日の大雪山には思わずため息が出る。行き交う他のウォークマンと「今日は山がきれいですね」と早春の大雪山を共有する。そして、心の中でそっと話しかける「綾子さん今日も大雪山がきれいですよ」と。語彙が貧弱な私は「大雪山がきれいですよ」としか言えないが、「今日の大雪山は何々のようだ」と微妙に違う大雪山を表現することができたら楽しいだろうと思う。でもこうして大雪山を綾子さんと共有(?)できることはううれしいことである。
引用、参考文献(『草のうた』『石ころのうた』『道ありき』)
コメント