4月28日、和寒町にある「わっさむ塩狩峠公園」がオープンし、そこに新しく設置される三浦綾子「塩狩峠」文学碑の除幕式が行われた。
デザイン・制作は町内に住む彫刻家の長澤裕子さん。私は彼女と三浦綾子読書会でご一緒させていただいているが、真摯に作品に向き合う真面目な芸術家でありながら、普段は気さくで困っている人を黙っておけないような思いやりのある方で女性からみても魅力的な人物だ。
除幕式は町長来賓の挨拶、三浦綾子記念文学館事務局長の難波真実氏、作者の長澤さんと続き、途中2度ほど碑の奥の林の中を走る電車に皆で手を振るイベントもあり、和やかであった。
この文学碑は、本体は中国産白御影石で幅150cmX奥行100cm×高さ180cm、重さは7トンもあるという。内側にはめ込んである赤い石板はインド産赤御影石(ニューインペリアルレッド)というらしいが、落ち着いた色合いで光沢も美しい。
長澤さんは、「『塩狩峠』の登場人物である、自分の命をていして人の命を救った永野信夫、その彼を失った婚約者の吉川ふじ子が、病気で死に別れて前川正を失った三浦綾子と重なる。大切な人を失って、そこから立ち上がりどう生きていくのか。その小説のラストシーン、青空の下で慟哭するふじ子が供えた雪柳の花の絵と小説の言葉をこのプレートに入れた」と作品に対する思いも語ってくれた。
作品は、実際に触ったり、抱きついたり、座ることもできるようになっている。
小説『塩狩峠』は、1909(明治42)年2月28日に発生した鉄道事故で殉職した実在の人物・長野政雄氏を元に、愛と信仰を貫き多数の乗客の命を救うため自らを犠牲にした若き鉄道職員の生涯を描いたものとして知られている。
人命救助のため殉職を遂げた旭川六条教会の信者、長野政雄の手記を読んだ三浦綾子が、1966年4月から「信徒の友」誌に2年半にわたって連載し、その作品は2年後に新潮社より出版された。月間連載を小説化したものとしては初めてのものであり、並行して自伝小説の『道ありき』を書いていることもあり、内容を考えると意味深い。この頃、夫の三浦光世が肩のこる綾子の代わりに口述筆記を始めたことも二人三脚で作品を作り続けた二人の記念すべきスタートだったと思う。
この三浦綾子の代表作の一つでもある『塩狩峠』が生まれたきっかけになった、とても大切な人物がいる。それは小説の主人公、永野信夫の実際のモデルで鉄道職員だった長野政雄氏の直属の部下、藤原栄吉氏である。氏は私と同じ旭川六条教会の大先輩でもある。率直な性格の綾子は当時教会の研修会で一緒になった80代の藤原氏の意見に遠慮なく感想を述べたらしく、いちいち批評したと氏の怒りをかった。場所は今も噴水と木々の緑が美しい旭川常磐公園、野外のことである。(このことは、エッセイ集『遺された言葉』の「愛と謙遜」に載っているのと、小説選集の『塩狩峠・道ありき』巻創「作秘話(三)」で三浦光世が載せている)さて、氏を憤慨させて慌てた綾子は、すぐに牧師を伴って藤原氏宅を訪問し、幾度も平謝してやっと許しを得た。この時、たまたま長野政雄氏のことを書いた机上の原稿に綾子が目を止め、事を詳しく知ることになった。そして後に小説に書かせてほしいということに至ったというから、すごい偶然だと思う。この時、氏を怒らせなかったなら、謝罪に訪問しなかったならば、あの名作『塩狩峠』はこの世に誕生しなかったのかもしれないと思うと、実に三浦綾子にこれを書かせたのは偶然ではない不思議な縁を感じる。私はこのエピソードが好きで、当時の藤原氏と綾子の行動に心から感謝したいと思う。
さて、今もベストセラーとして読まれ続けている『塩狩峠』の舞台である和寒町塩狩峠で、周辺を散策するフットパスイベントが毎年行われている。またJR塩狩駅近くの線路沿いにある「長野正雄殉職の地」顕彰碑が建っている場所でも、極寒時期2月28日の命日の夜にはアイスキャンドルの火が並ぶ幻想的な中イベントが催され、毎年全国からファンが集っている。
おとぎ話にできそうな雰囲気の塩狩峠記念館、このあたりは本当に春から夏にかけて新緑がとても美しい。
またこの場所を訪れる際には、国道沿いに新しく建った文学碑を見るだけでなく、手で触れてみたり座って一休みしたりして、心地よい景色と空気を楽しみたいと思う。
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