【案内人ブログ】No.65 三浦綾子さんと大雪山について 記:森敏雄

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順不同で恐縮だが、私の知る限り、三浦綾子さんは①北海道新聞社編『大雪山物語』に“大雪山と私”と題する原稿用紙2枚程度の小文を寄せている。②ぎょうせい(株)編『日本の名山1 大雪・日高と北海道の名山』に“大雪山に想う”と題する原稿用紙5、6枚程度の文章を寄せている。③後藤昌美氏写真集『大雪残象』に“吾、山に向いて目を上ぐ”と題する原稿用紙5枚程度の序文を寄せている。④志賀芳彦氏写真集「大雪」に“私と大雪山”と題する原稿用紙7枚程度の文章を寄せている。これらが三浦綾子さんと「大雪山」の接点である。
(参考)大雪山は、独立峰ではなく北海道の最高峰「旭岳」を主峰とする山群である。

三浦綾子さんと写真家との付き合いは判然としないが、後藤・志賀両氏に序文なり小文を寄せているのは、熱心に頼まれたからであろう。この4つの随想を読んで解ったことは、三浦綾子さんは物心ついた小学生時分から、いつも「大雪山」と共にあったということである。「今日は大雪山が見えるか、どうか」は大問題であった。旭川にとって、その日大雪山が見えるかどうかで印象ががらりと変わる。とりわけ、彼女は小4から長兄の仕事を助けるため、牛乳配達を7年間体験している。小説『氷点』では陽子が牛乳配達をする場面が描かれている。これは綾子さんの体験そのものである。彼女は牛朱別川の堤防を歩きながら、さまざまな大雪山の朝の表情を目撃してきた。春夏秋冬、大雪山の朝の様子を語れるのは彼女をおいて他にはいないだろう。

三浦綾子さんが初めて大雪山に登ったのは1943年(昭和18年)21歳の時であった。公表されている三浦綾子年譜にはその年なんの記載もないが、私的には「(1943年)大雪山連峰の黒岳、北鎮岳に登頂する」という一項目を加えて貰いたいと想っている。ちなみに、黒岳石室が開業したのは1923年(大正12年)、黒岳ロープウェイが開通したのは1967年(昭和42年)であった。

1943年(昭和18年)の夏、綾子さんたちは職場の同僚女教師5人で黒岳~旭岳の縦走にチャレンジした。山好きのベテランが同僚に声を掛け合ったのであろう。この山行は健脚でないと無理。いきなりの上級者コースだ。当時はロープウェイ開業前である。綾子さんたちは層雲峡黒岳登山口から6時間ほどかけて黒岳山頂に達しただろう。そして30分ほどで黒岳石室に到着し宿泊する。初心者の綾子さんはよく頑張ったと想う。5人は翌朝早く朝食を摂って出発、1時間半ほどで北鎮岳に登頂した。そこで、綾子さんは思わぬ腹痛のため一人で下山することになった。
普通ならリーダーの指示で、誰かが付き添って一緒に下山するだろう。綾子さんは必死に大丈夫、大丈夫と断ったことだろう。黒岳石室まで1時間半、“みんなは計画どおり旭岳へ縦走して。お願い!”と。綾子さんはもと来た道を引き返す。静寂の中、何の音もなかった。どこかでうぐいすが啼く。決して孤独ではなかった。黒岳石室でひとまず休憩。それからどうなったのかは全く不明である。元気を取り戻し、黒岳山頂経由で層雲峡黒岳山口まで下山したのか、それとも黒岳石室に宿泊し、翌日のんびりと下山したのか。いずれにせよ、綾子さんの大雪山連峰登頂の想い出は、層雲峡黒岳登山口―黒岳―北鎮岳からの往復という、ベテラン登山者顔負けの輝かしい山行であった。それ以後、綾子さんは登山する機会がなかった。従って、綾子さんは青春時代、最初にして最後の貴重な登山の思い出を心に刻んだ。素晴らしい体験であった。

本年1月末、十勝岳が「日本ジオパーク」に新規認定された(案内人ブログNo.57参照)。「あさひかわジオパークの会」では、神居古潭や上川盆地、大雪山周辺地域のジオパーク認定に向けて、日々努力を傾けている。名づけて「大雪山カムイミンタラジオパーク構想」。旭岳、黒岳などは本構想の中核をなすものである。会の設立からちょうど10年が経過した。旭川市ほか6町は、一日も早く「日本ジオパーク」への新規認定を積極的に働き掛けなければならないだろう。先輩格の美瑛・上富良野町にしっかりと学ぶべきである。

by 三浦文学案内人 森敏雄

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