【案内人ブログ】No.46 「天人峡温泉の歴史展」を視察して 記:森敏雄

案内人ブログ

新型コロナウイルス変異株が猛威をふるっていた6月初め、大雪山アーカイブスから表記イベントの案内チラシが届いた。会期は6月15日から2か月間。私たち三浦文学案内人にとって、「天人峡」「天人峡温泉」といえば即、小説『自我の構図』の舞台である。1972年7月(昭和47年)この作品発表後、天人峡はにわかに注目を浴び、全国から観光客が殺到したと聞いている。
そこで私は、僭越を承知の上で、敢えて小説『自我の構図』のあらまし(A4サイズ、字数1500字程度)を主催者に提供した。そして迎えた6月15日(=開催初日)、私は取材を兼ねて現場を短時間で視察した。以下はその概評である。

1  天人峡温泉は1900年(明治33年)開業し、当時は松山温泉(創業者=松山為蔵)と呼んでいた。ホテル天人閣は2000年(平成12年)に創業100年を迎えたが、2018年(平成30年)倒産し、長期休業中。再開の目処は立っていない。
 余談だが、綾子さんはホテル天人閣で小説を書いていたことがあった。そこに光世さんの兄健悦氏が女性を連れて、ホテル滞在中の綾子さんのもとにやって来た。その女性が「羽衣の滝」を見に出かけた時、綾子さんはいきなり健悦氏を叩いた。「あの女性は誰?」

⇒その女性は三浦綾子ファンであったが、綾子さんは不倫していると勘違い! 面目躍如なりの一コマがあった。
2  天人峡の峡谷は溶結凝灰岩からなる柱状節理で知られており、かつて霊仙峡→勝仙峡(ともに小泉秀雄命名)と呼んでいたが、「羽衣伝説」の流布後いつしか「天人峡」「天人峡温泉」と称するようになった。
3  天人峡のシンボル「羽衣の滝」は落差270メートルである。全国的に有名な富山県立山「称名の滝」は落差450メートルで断トツ。「羽衣の滝」は第2位とも第3位ともいわれている。「羽衣の滝」の命名者は一説には大町桂月の名が出ているが、これは明らかに誤りだということが解った。現在でも命名者不詳である。
 大町桂月は大正10年8月22~25日旭川在住の大雪山の主と呼ばれた成田嘉助の案内で、層雲峡⇒天人峡温泉(当時は松山温泉)を縦走した。「富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の大さを語れ」という名言を残した(「桂月全集」別巻参照)。大町桂月は「層雲峡」の命名者でもある。黒岳のすぐ隣に氏の名前を冠した「桂月岳」あり。
なお、東洋のナイアガラと称される「敷島の滝」へ向かう遊歩道は現在、通行禁止となっており、復旧の目処は立っていない。
4  天人峡はトムラウシ山登山基地としても有名である。前述の成田嘉助は、大町桂月や小泉秀雄、大島亮吉などの山行に同行している。大島亮吉は『石狩岳から石狩川に沿うて』という著書を発表している。
5  天人峡温泉公共駐車場脇には「天女の足湯」(無料)がある。また、トムラウシ山登山道入口から急坂(三十三曲り)を登ると、台地に出て15分ほどで「滝見台」に着く。そこに立つと、正面には「羽衣の滝」が見え、晴天だとその奥に旭岳が見える。
6  小説『自我の構図』は、三浦綾子記念文学館HPの100字紹介によると、「藤島は嫉妬と猜疑心から事件を起こし、南を嵌める罠を仕掛ける。愛と軽蔑が錯綜する世界」と解説されている。この作品がNHK銀河テレビ小説としてテレビドラマになった時、ヒロイン藤島美枝子を大空真弓が演じた。三浦夫妻と大空は深い信頼関係を築いた。また、「羽衣の滝」ロケの際、三浦夫妻は現地に赴き、制作スタッフや出演者たちを歓待した逸話が残っている。


私が提供した小説『自我の構図』のあらましは、会場の書架の上に、三浦文学案内人・森敏雄と付記し、ケースに収められて展示してあった。主催者側のご配慮に深く感謝し、その旨を専門員らに伝えることができた。そもそもの動機は、何かお役に立てればという軽い気持ちであり、この顛末には甚だ恐縮であった。
ところで、皆さんは天人峡温泉に自生する「ハゴロモホトトギス」という花をご存知だろうか?鳥ではなく、花=ユリ科に属する植物で、「ハゴロモ」とは名瀑「羽衣の滝」に由来する。「ホトトギス」とは花びらの斑点模様が鳥のホトトギスの胸の斑点を連想させることから名付けられたという。開花時期は7月上旬ころ。

三浦文学案内人の活動範囲は、本来業務である館内ガイド・見本林ガイドのほか、文学散歩やフットパス、報道機関への情報提供(投稿含む)などなど、徐々に拡大されつつあるのだろうと思う。今回は大雪山アーカイブスからの情報入手が縁で、このブログ発信につながった。8月中旬までの会期があります。時間を作って、東川町せんとぴゅあⅡ会場に足を運んで貰えれば嬉しく思います。

by 三浦文学案内人 森敏雄

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